詩投稿欄

日本現代詩人会 詩投稿作品 第34期(2024年7月―9月)入選作・佳作・選評発表!!

日本現代詩人会 詩投稿作品 第34期(2024年7月―9月)入選作・佳作・選評発表!!
厳正なる選考の結果、入選作は以下のように決定いたしました。

■うるし山千尋選
【入選】
むきむきあかちゃん「灰色のトンネル」
水町文美「つちとてん」
佐藤百々子「Lost Children」
山口波子「さみしがり」
戸田和樹「野鳥遊園」

【佳作】
メンデルソン三保「ひとつかみ」
篠岡弘「急な階段」
サマ「おれの助走は犬より長い」
鍵井瑠詩「文字より」
中野輝基「きたい」

■浜江順子選
【入選】
こやけまめ「地球として」
佐々木春「リボルバー」
熊倉ミハイ「ドレミファドレミファシド忘れ」
古屋朋「赤い空」 
齋藤みみず「嘘」

【佳作】
狩原庸輔「A子の追悼」
田口裕理阿「モート」
篠岡弘「急な階段」
関谷俊博「忌み子」 
石川小傘「神話」

■雪柳あうこ選
【入選】
安藤慶一「巡礼の道」
熊倉ミハイ「夜光バス」
よしおかさくら「三月三日」
柿沼オヘロ「火山ガラス」
吉岡幸一「母の蜜柑」

【佳作】
三明十種 「つめたい せかい」
入間しゅか「狐憑きの除霊」
柳瀬多佳「雨・毒薬」
古屋朋「雪と雷」
遠野一彦「この夏」

【選外佳作】
佐々木春「リボルバー」
三刀月ユキ「37.5度線」
むきむきあかちゃん「run!」 
三上太陽「道化師-案山子」
狩原庸輔 「A子の追悼」

投稿数611 投稿者325

 

むきむきあかちゃん「灰色のトンネル」

母を待っていると 山高帽のおじさんが

ついてきなさい
この世でいちばん素晴らしいものを見せてあげよう

やがてたどり着いた先には
灰色のトンネルがありました
ぼろぼろの汚れた布切れで できたトンネル
かがんでやっと入れる 小さなトンネルです
覗くと ずっと向こうに
小さな光が見えました

私と おじさんは
はうように トンネルを進みました
私は わくわくしていた
素晴らしいものってなんだろう

きらきらの宝石
鮮やかな絵画
たのしい音楽
幸せな詩
遠くに見える光の向こうには
きっとそんなものが

そうして 光を追って進んでいくと
やがて出口は見えました
ああ どんな素敵なものがあるんだろう
私は駆けるようにトンネルを抜けました
そこにあったのは

灰色の屋上
灰色のコンクリート
灰色の空
ただただ灰色に固められた
屋上

これはいったい どういうことですか
私は おじさんの方を振り返りました

そう 何もないこと
何もないことです
何もないのこそがいちばん素晴らしいのです

おじさんは顔一面に笑みを浮かべて言ったのでした

つぎの日 友だちたちと歩いていると
また山高帽のおじさんが

ついてきなさい
この世でいちばん素晴らしいものを見せてあげよう

同じことを言いました

素晴らしいものだって
面白そう
行ってみようよ
友だちたちはみんな喜んで 行くことに決めました
私も 着いていくことにしました

たどり着いたのは やはり
昨日と同じ 灰色のトンネル
友だちたちと はって進みました

どんなものがあるんだろうね
そう声を弾ませる友だちに 私は

でも実はね 何もないんだよ
そう小さな声で 耳打ちしました

やがて出口が見えてきました
ああ きっとみんながっかりするだろう
だって何もないんだから
でも何も知らない友だちたちは
われさきにと 私を置いて出口を抜けて行きました
私は待ちました 彼らから 落胆の声がもれるのを
しかし 出口から聞こえてきたのは 
大きな歓声でした

出口の先にあったのは
前と同じ屋上
ただし
青い空につつまれ 
ちいさなサーカス団が音楽を奏で 歌を歌い
色とりどりの衣装を着た曲芸師が踊りを踊っていました

友だちたちは 目を輝かせて手拍子を打っています
これはいったい どういうことですか
私が おじさんの方を振り返ると
おじさんも なぜか誇らしそうに私を見ていました

水町文美「つちとてん」

はなばなの
ピンと伸びたスジが
つちとてんを結んでる
つちはくさった葉が折り重なって
虫が見えかくれしている
茶色
だども
プンとかおる古代の匂いが
上っ面の生きものの歴史を
全部をまぜこぜにして
静かに受け止めている

山に登るんだ
声はつちにいろどられて
あたかも一枚の絵であった
やまやまはつちで
つちはやまやまだ
そんなところだろう

葉はフルフルと頷いて
全ての絵の具を混ぜたら
茶色になったのを思い出した
目指すのは空だろう
だども
どこまで登っても
つちとてんを結んでる

佐藤百々子「Lost Children」

明けていく街はいつもやけに白飛びして薄ぼけた色をしている
トーンカーブを急激に引き上げた色調補正レイヤーを重ねたみたい
ゲームアプリより嘘っぽい現実が惚けた顔でまた始まる
暑くなる予感がにおいたって朝っぱらから騒がしい
記憶に降り積もる存在しない夏のレプリカ

人は網膜で得た情報を脳で見ることができない
アプリが修正した顔みたいに
脳で自動補正されて「正しく」認識された世界
を見ている
あと七次元くらい飛び越して
Schemaから眺めたら
脳の外も 夏 なのだろうか

覗き込んで
僕の目が見た
脳が視る前の
世界は
僕の眼球にだけ映っているから
覗き込んで 君が
僕一人では見えない空を

「夏 朝 空 街並み」でイラストを自動で生成 をクリック→

人の脳を介さない機械が
人の脳を食べて描いた世界は
神様が見ている世界のそのままに一番、近い
はじめに言(ことば)があって
意思なき恣意の蓄積としての意図なき色の点描画
夏を見てしまうのは僕の脳
意味から逃れられない僕の脳が仮定する心の理論

これほどに人間が歪んで見えているのですか 神様
あるいは
人間の脳には見えないだけで
歪んでいるのでしょうか

神が人を閉じ込めた頭蓋骨の檻の楽園の外では

山口波子「さみしがり」

いぬ毎に速度が落ちる。
いぬが旅先で新鮮ないぬだったから
輪をかけて速度が落ちた

いくつ渡り損ねた

いぬ毎に集中が切れる。
いぬが旅先で新鮮ないぬだったから
輪をかけて集中が切れた

いくつ折れ違えた

わたしだけで見ている
ベランダでは洗濯ものが揺れている
確かに揺れているけれど
無音
エラ呼吸のようだ

現在地と人肌とを天秤にかける

 絶滅のしんがりは
  よそのひとでありますように

戸田和樹「野鳥遊園」

一人
野鳥遊園まで歩いた

だらだら坂を息切らせて上る
老いの足は重く
なかなか歩が進まない
桂坂小学校前から緑地歩道に入り
中学生たちが
陸上競技の練習をしているのを横目にしながら
ようやく野鳥遊園の入口に着く
手ぬぐいを肩にかけた係の人が
箒片手に
のんびりと落ち葉を追っている

中に入ると
途端に静けさが襲ってくる
昔ここで
小さな娘は木の小鳥の飾りを作っていた
無心に作り続けた四十雀が
今でも家の居間に掛けてある

池の水は濁っていた
野鳥の一羽すらやってこない
そんな時間帯だったが
野鳥の代わりに
ハイキングの老夫婦が
かわるがわる入って来て
望遠鏡で池の様子を眺めておられた
その程度の時間の揺らぎしかない
静まり返った野鳥遊園で
ぼくは
かつての小さな娘との時間を
ゆっくりなぞっていた

こやけまめ「地球として」

満月はこちらを見つめているみたいで恐ろしいと言う
だけど君も目玉として月を見ている
地球という視覚のある玉として
機能させられている

なんのため?

私が燃えてばらばらになったとき
火葬場を離れた君は空を見上げる
私の一部は空の一部になっていて
雲にあいさつをする
土に向かって降れと命令される

死んでも死んでも地球にいる
地球のために生まれて
地球のために死んでいく
地球のために悪夢を見る
地球のために恐怖する
地球のために月と見つめ合う

いつか、地球が使い物にならなくなって
人類が別の星に引っ越しをするとき
私たちは人類ではない可能性が高い
置いていかれるだろう

目玉として
太陽に飲まれていくのを為す術もなく君と待つ
長すぎる映画を隣で観る恋人として

佐々木春「リボルバー」

いつの間にか
迷い込んでいた森は
思ったよりもずっと深い
わたしは見渡す限り一面の
四角い湿った木々の間を歩いて
ひしめく壁をひとすじ走る路から
粉薬をたくさん溶かした曇り空へと
曖昧につながっていく透明定規の
目盛りの消えた平らな点に座り
弛んだ二の腕を汗で濡らして
赤く、まるいプラムを齧る
口から感じて沁みる酸味と
窓の外の記憶にない記憶。
(かつて
やつらが
はがねの
はぐるまを
まわして
あめを
あつめて
はじいた
とき
こがねの
めがねの
てまえに
あせが
ぽつり
うかび
ひかり
そらが
くもが
こころが
まとめて
はじけた)
堅い木の椅子から立ち上がれないとしても
心は、いつも、どんなに幻でもいいから
せめて見覚えのない港の白い灯台の
見渡す範囲を広がっていたいから
わたしはいつもコピー用紙で
空をあおく、あおく、磨く。
やがて、その奥の層から
生成りの沁みが、ひとっ、ひとっ、浮かび、
いつしかすっかり撓んだ薄墨に広がって、
音に先駆け、一斉に夕立が落ちてくる。
皮膚に沈んだいくつもの汚れを、
強く、激しく叩き、解かして、
血が滲み、
膿が溢れ、
腿を伝い、
渠に潜り、
川を流れ、
膿が流れ、
海に流れ、
膿が広がり、
海を広がり、
海が、
広がり、
空が、
広がり、
森に、
空は、
青く、
広がり、
いよいよ、 やつらがやって来る。
さあ、いっしょに海へいこうよ!
空に向けて突き上げたまっ白な左脚
右脚を軸に急速に巻き戻された上半身
二次曲線を描いて撓ったわたしの右腕から
お日さまめがけて放られた革新素材の心臓を
せえので駆けて、全力ダッシュで追いかけて!

熊倉ミハイ「ドレミファドレミファシド忘れ」

ささやきを取り戻せない
小さくて 大きくて
人差し指から薬指までを握りこんで
親指と小指をピンと張る
空気たちが遊ぶ波の長さを測っていた
今、潮風もドの音で
そこに落ちている貝殻もド
朦朧な、灯台はミで
爪の間に入った粒はレ
頭の上を横切るカニが楕円を描く
だらんとひらいて浮いた口から
流れる水を
弓がすくって
顎が動く
発熱した
顎が動く
水平線が切り忘れた低音、その尾にかみつく
右耳にしか聴こえないザラザラ
左耳にしか聴こえないクグモリ
涼しいぬかるみに漂う、不味そうな藻から
(蓄音機もラジオもスマホもない)
歌声はただ流されている
貪欲に、子どもっぽく、跳ねるリズム
砂礫がさらわれる速度は、いつも騒がしく
有孔虫が、私の足もとを知っている
そのやわらかな付属器官を
誰も許したことがない
それでも鼻の上を抜けていく
恥ずかしがり屋な、からっぽが、きれいで

古屋 朋「赤い空」

空が伸びている
今立っているこの地が
惑星であることの証のような
目まぐるしく変わりゆく空の顔
歩き出そうとしても泥濘む足もと
誰かが引いているのか
沼のなかに次第に落ちていく

空の端にみえる白い手
遠い記憶にいたあの人のものか
必死に沼地を這い出ようとし、
細い、白く光る五本の指を手探りする

誰かの理想になりはしない
濡れ衣も、まやかしも
本当はすべて知っている
透明な私に花束を持たせた
誰かの顔を覚えている
あの、やわらかな暗雲を
形相に浮き出ていた暗雲を
すべて、すべて覚えている

せせらぎが
変わらない速さで素足を濡らし
さらっていく
ときに月を反射させながら。
大きな感情を小さな船に乗せて
泣いている子らに渡しに行く
もう何も、足を取るものはないのだ
泣きやんだ子の空は美しく
赤く燃えるように光っていた
濡れた頬にきらめいていた

齋藤みみず「嘘」

「そこに月はあるの?」
盲目の少女は月と共に眠る
「えぇ あるわよ
 青くて 黒くて ふわふわしてる」
母は月を見ていない
「鳥さんの鳴き声がするね」
空を舞う雉鳩の群れ
「鳥さんには牙があって
 足が八本 生えているのよ」
母は鳥を見ていない
「お母さんの足はなんほん?」
少女の視線は動かない
「あなたとおなじよ」

「わたし 足が何本か しらない」
「しらなくていいのよ」

安藤慶一「巡礼の道」

渋滞が
赤いブレーキランプの
つらなりが
先のほうまでずっとずっと
続いていて
それは
さっきから
全然動かないので
それは
一本の
道のように見えてくる
巡礼者たちの
長い
列のように見えてくる

信号が
青になり
また 赤になり
動かない
夕闇よりもおそく
信仰のような
耐え方をして
赤く
みなぎり
ふくれあがった
ブレーキランプのつらなりが
ひとりひとりの
ともしびのように
見えてきて
それが
先のほうまでずっとずっと
続いていて
それは
この土地の
素面のかたちに
ゆるく曲がったり
起伏したり
しながら

道の先には
吸われるようにして
夜に囲われた
ビル群
都市への入城が あり
そこには
神さまのかわりに
信じられているもののために
人が一時間でも二時間でも
順番を待っている
街がある

熊倉ミハイ「夜光バス」

ぼくは気づかない
君が目を閉じて寝てしまって
ぼくの言葉を夢の中で拾っていることに
ぼくは気づかない
こっそりと星も月も今のうちだと言って
夜をバックレてしまっていることに
ぼくは気づかない
バスはすでに車道から外れて
海の上を 空の上を 蛇腹の中を
進んでいることに
ぼくたちは気づかない
すでに運転手などいなくて
無数の光の筋に揉まれながら
バスが暗闇を進んでいることに
ぼくたちは気づかない
ぼくは気づかない
頭の中で目的地が姿を変えて
もう戻れない過去へひたすらに向かっていることに
ぼくは気づかない
君が悪夢を見ていることに
ぼくだけがそれを救えることに
ぼくは気づかない
バスは気づいている
ぼくはバスに乗っていると思っている
バスはぼくに気づかない
フリをしているのにぼくは気づかない
ぼくを忘れて
君だけが光に連れてかれることに
ぼくは気づけない
ひとつ気づけるとするならば
車輪が
つらそうに足もとでふるえている
その脈動に
いのちが見える
ぼくだけが気づいている
ことに気づかない君に
ぼくは気づけない
目を閉じる
うん
ぼくは気づけない

 

よしおかさくら「三月三日」

おついしょうは
おべんちゃらに似ている
おためごかしとは
歳が離れた分だけ
少し違う気がする
下から順に三兄弟なんだろう
男ばかりだってのに
雛壇がまた大きくなったから
おためごかしは腹に据えかねている

いちばん下の妹おもねるは
近所の家の子と兄たちが違うから
なぜだか最近
恥ずかしいような気がしてきた
大人がいると傍に行って
一緒に頷いている
大柄の子ほど優先順位が高い
お兄ちゃんたち変よというと
お前もだろと言われた
そうだったかしら
そうだったかもしれない
お兄ちゃんたちの言うことだもの

従姉弟のおはやしと
たいこもちも
親戚のせいかよく似ている
たいこもちなんか
ランドセルじゃんけんでは
いつも負けてばかり

仏壇は金色が多くて
屋根に透かし彫りがあるし
とっても綺麗
人はいないけれど
雛壇よりも好きだった
すぐに消えてしまわないし
雛壇も拝んだら
消えないで済むかしら
そう思って拝んでみたら
おもねるったら間違えてるよ!
遊びに来ていた
おはやしが笑った
三月三日

柿沼オヘロ「火山ガラス」

オルゴールは
生ぬるい風をまとったように
あやふやな音階で繋がっている
それは ゆりかごのふちに沿わせる歩行だから
ゆらめいて
かすんで また
帰路のかたちを結んで かすんだ

もっとも古い鏡
火山ガラスにふり積もった花粉が
糸を伸ばして
青い目の奥へ沈んでいく
その
からだを捨てていくような速度は
種子のやわらかい膝に 刻まれている?
まなこのドーナツ盤に
針を 落として

爪先を霊魂に忘れてきたのに
こうしてまだ歩いているのが 不思議だった
夢の火口付近
灰を積みあげる少女は
ひゃく、せん、まん、と どのくらい
かぞえうたを歌うだろう
どの手が 宇宙と 繋ぎたがって いるのか

花粉になって
分け入っていく
おいしいかい
水で満たされたオブラートの
ミトコンドリアの みどりごたち
純粋な光のたまを乳にして
脈をうつ喉は
そのまま黒点の似姿のよう

鏡の気泡のなかで
かおはゆがみ
少しずつあらましを変えていく
さあ あなたもどうぞ
どんな目でもお好きな目を
あなたが見ようとおもう分だけ さあ
まつ毛をくすぐる声が
その生ぬるく まるい息が
逆さ回転のオルゴールのように
魂のもつれをほどいていく

火口のふちに腰をかける
火の粉の少女たち
くるぶしを煙にひたして
ばた足を おもい出そうとしている?
しぶきの合間にのぞく
群青いろの血管は
タトゥーのようにも
交じり合えない孤島のようにも見える
ちいさな迷よい子の国々が
火山ガラスのふかい海を 仰いでいる

吉岡幸一「母の蜜柑」

母は段ボール箱いっぱいに入った蜜柑を買ってくると、息子を呼んでテーブルに並べるように言った。息子は首を傾げながらも一個一個蜜柑を並べていった。なぜそのようなことをするのか、尋ねようともしなかった。横に十個、縦に五個、合わせて五十個の蜜柑をきれいに並べ終えると、母を見てこれで良いのかという顔をした。

母は蜜柑を一個手に取ると、それを息子に渡して食べるように言った。息子はなんの疑問をもつこともなく蜜柑の皮をむくと、実を頬張った。食べ終えた後で母は言った。「あなたは今人を一人殺した」その言い方はまるで蜜柑が美味しかったと言うような感じだった。息子は蜜柑の皮を並べてあった場所にそっと戻した。

母はまた蜜柑を一個手に取ると、それを今度は自分でむいて食べだした。母は食べ終えるまで一言も発しなかった。食べ終えた後「わたしも今人を一人殺した」と言った。その言い方はまるでお腹いっぱいになったと言うような感じだった。母は食べ終えた蜜柑の皮を元の列に戻すと、手を叩いて祈りだした。

息子は母からなにも言われる前にもう一個蜜柑を手に取った。皮をむき、実を頬張り、喉に流し込んだ。「ぼくはまた人を一人殺してしまった」と言うと、自らの頬を思いっきり抓った。そして蜜柑に向かって深々と頭をさげた。母は悲しそうに息子を見つめると、自分も新しい蜜柑を一個取って食べた。息子とは違って頬を撫でた。

キッチンの前にテーブルはあり、その上に蜜柑は並んでいた。ステンレス製の流し台の上にはフライパンや鍋、洗って乾かしている食器などがあった。部屋を囲むように冷蔵庫や食器棚が置かれ、壁の開いたスペースには三年前に蜜柑を喉に詰まらせて亡くなった父の写真が飾られていた。写真の父は見知らぬ山の頂上で笑っていた。

母は五個蜜柑を食べた。つまり五人の人を殺したわけだ。息子も五個蜜柑を食べた。息子も同様に五人の人を殺したことになる。「お腹が空いたら私たちはまた蜜柑を食べて人を殺すでしょう」と母は言った。「殺さないことなんて不可能だ」と息子は答えた。十枚の皮と四十個の蜜柑が定規で揃えられたようにテーブルに並んでいた。

蟻が三匹テーブルに上ってきた。一匹は皮のなかに入って止まり、一匹は蜜柑の周りをぐるぐると回り、一匹は蜜柑の上に乗って得意そうに立ちあがって周りを見回していた。母は蟻を殺そうとはしなかった。息子も蟻を眺めているだけだった。蟻は飽きたのかやがてテーブルから下りていった。母は蟻が乗った蜜柑を優しく撫でた。

息子は食べた後の蜜柑の皮を手で寄せて集めるとごみ箱に捨てた。その後きれいに並んでいた四十個の蜜柑を混ぜてばらばらにした。母は悲鳴をあげた。「生命を冒涜してはいけない」と言って、息子の頬を平手打ちした。息子は椅子から倒れて床に頭をぶち当て、頭から赤い血を流した。息子は泣いていたが、母を憐れんでいた。

ばらばらになった蜜柑を母はまたきれいに並べていった。息子は手伝わなかった。蜜柑を食べることと人が死ぬことに関連はないと息子は知っていた。知っていて母に従っていたのだった。母は蜜柑を並べ終えると「もう食べない。だから誰も殺さない」と言った。その後で「殺さなければ餓死して死ぬだけだ」と息子を睨んで言った。

母は蜜柑を食べなかった。蜜柑は腐っていった。息子は腐った蜜柑をごみ箱に捨てた。「殺しても、殺さなくても人は死ぬ」と母は言った。死ぬことと、殺すことは違うと、息子は言いたかったが言わなかった。息子は母を心から愛していた。母の手を取り、唇を寄せたがその意味を母は理解できなかった。母は遥か遠くを見ていた。



■うるし山 千尋選評

原則通り10作だけ選びましたが、他にも個性的な作品が幾つかありました。書き始める前にコンセプトや世界感を固めすぎると、かえって詩が小さくまとまってしまいます。前の言葉が次の言葉を呼び起こし、書いているうちにどこへ向かっているのかわからなくなる。それくらいの方が良いと思います。

【入選】
むきむきあかちゃん「灰色のトンネル」
 この人の詩はいつも静かに狂っている。一読すると、童話のようなストーリーが書かれてあるだけで、特にインパクトがあるわけではない。だがよく読むと、「当たり前」ではないことが「当たり前のように」書かれていて、その凪のような暴力性と中毒性を書いた本人がよく理解しているように思える。自分にしか見えない世界のなかに自分をおいて詩を書く人は多いが、自分にしか見えない世界の〈外〉から、自分にしか見えない世界を書ける人は多くはいない。「灰色のトンネル」という詩、どの一行を抜粋してみても詩にはなっていない。しかし全体を読むと、危険な詩の匂いしかしない。

町文美「つちとてん」
「天と地」=「空間」と、「茶色に集約されていく」=「時間」をうまく織り込みながら、難解な用語を一切使わずに、深みのある世界を描き出している。「全ての絵の具を混ぜたら/茶色になったのを思い出した/目指すのは空だろう/だども/どこまで登っても/つちとてんを結んでいる」。絵の具が溶けて単色(茶色)に落ち着いていくのは、つまりエントロピーが増大していく過程である。それは時間が一方向へ経過していくことを意味する(らしい。物理学の入門書にそう書いてあった)。しかし時間がいくら進もうが、どこまでも「つち」と「てん」が結ばれて〈いる〉という事実に、その事実のみに、作者は驚いたのだ。詩とはそういう「驚き」であると思う。

佐藤百々子「Lost Children」
 現実とは何か? それを哲学でも物理学でもSFでもなく、詩で捉えようとした作品。「言葉」によって世界(現実)は構成されている。今、私が見ているパソコンのディスプレイは「現実」だろうか、それとも「レプリカ」だろうか。そこに表示される「記憶に降り積もる存在しない夏のレプリカ」という「言葉」は、「現実」だろうか。日常に覆いかぶさる「言葉」のレイヤーそのものが、現実でもあり嘘でもあること。そしてそれを「言葉」自身によって語ること。詩を書くことはその矛盾や「ずれ」に気づくための試みでもある。世界への向き合い方として、面白い作品。

山口波子「さみしがり」
 独特の虚無感が拡がる。第1連は「旅先で見かけた犬たちが、とても元気でかわいかったから思わず足が止まり青信号をいくつも渡り損ねた」ということを、おそらく言いたいのであろう。「いぬ毎」「新鮮ないぬ」「青」。極端な省略と、感情を排除した語のセレクトによって、この詩の孤独の深度が窺い知れる。他者を必要としないとき、自分の内側でだけ言葉を発するとき、〈わたしだけで見ている「新鮮な犬」〉は、私にとって一番正直な犬の存在の仕方なのだ。
最終2行、「絶滅のしんがり」は確かに究極のさみしさを伴うだろう。

戸田和樹「野鳥遊園」
 日常のなかに不意に現れる時間の揺らぎをうまく捉えている。何気ない公園の一コマのなかに作者は自分の立ち位置を据え、風景を言葉に変換し、そこから記憶という時空を行き来している。昂(たかぶ)りを制御できる(もしくはもう卒業した)人間の詩かもしれない。「望遠鏡で池の様子を眺めておられた」の「おられた」という表現がいい。「眺めていた」では、この詩の良さが半減してしまうだろう。〈人がそこにおられた〉ということを無理なく感じさせるこの詩的遊園は、描けそうでなかなか描けない。

【佳作】
メンデルソン三保「ひとつかみ」
 ほんのひとつかみで変わる世界。まさに作者の感性が生きている。独特のリズムで繰り返される疑問形は、やがて他者に同意を求めることばではなく、読む者に何らかの選択を迫っているかのような不思議な力を持ったことばへと成長していく。そして緊迫感を増しながら、平穏な街で暮らす私たちの日常に問いかけてくる。戦場となった街の時計の針を戻すには、「わたしの手をモンスターの手にし」なければいけないと語る悲しさ。この世界の不条理を、不条理のままにしておけない〈やさしさ〉がこの詩の基礎にはある。

篠岡弘「急な階段」
 「祖父は今からぼくらを飲み込もうとしていた」という一行が、作者にとっての祖父の存在をもっとも正確に表している。それは理屈では説明できない、直系尊属卑属の関係性だけが持つ血の重さを表している。「もうすぐ祖父と空は/一体化するのではないかと思えた」という表現が印象深かった。人は死ぬと天国への階段を昇るという。天国があるかないかはわからないが、死者はとりあえず一度は空と一体化するのかもしれない。それがたとえ低く暗い空であっても、死者を想うとき人は必ず空を見上げる。

サマ「おれの助走は犬より長い」
 この人は犬より長い刀を持っている。それがどういうことかはわからないが、全体的な「人生のうまくいかなさ」に、作者の悲哀と決意のようなものを感じてしまう。詩の面白さというものは、「わからないけれど感じてしまう」ところにある。とはいえ「俺の助走は犬より長い」、これがどういうシチュエーションなのか、何度読んでもやっぱり全然わからない。何か深淵なるものを感じさせてはくれるのだが、作者のあまりもの作為のなさに読者の心が迷子になる。そこが面白い。

鍵井瑠詩「文字より」
 詩を書き始めた頃、こういう体験をしたことがある人も多いのではないだろうか。やがてそこから、見えなかったものが見えるようになり、詩が生まれていく。「言葉」よりまえの言葉、「言葉」を形作られるまえの世界、それらがどれだけ輝いて(また、ある者にとっては苦しみを伴い)人生を変えてしまうことか。最初の連が説教くさくなってしまったのが少し残念。極端にいえば、1連目をばっさりと削って、第2連だけ残した方がこの詩はいいと思う。それで十分伝わる。

中野輝基「きたい」
 読んでいると絶望的になる詩だ。なぜかというとこの詩に書かれていることは、作者のいう通り、〈どの角度から切っても〉身に覚えのある事実だからだ。では事実を書けば詩になるのか? そうは簡単ではないように思える。おそらくこの作品は詩として成立していない。しかし、読むとやはり絶望的に絶望を感じてしまう自分がそこにいて、ここには絶望しかないなあ、と思いながら、結果、いつの間にか佳作に選んでいた。「きたい」というタイトルは絶望からは生まれない言葉だ。絶望を語れるうちは、まだわずかな希望への可能性が残っているのかもしれない。それもまた言葉の力と言ってよいのか。とにかく手元に残った。

■浜江順子選
【入選】
こやけまめ「地球として」
佐々木春「リボルバー」
熊倉ミハイ「ドレミファドレミファシド忘れ」
古屋朋「赤い空」 
齋藤みみず「嘘」

【佳作】
狩原庸輔「A子の追悼」
田口裕理阿「モート」
篠岡弘「急な階段」
関谷俊博「忌み子」 
石川小傘「神話」

■浜江順子選評
 少しお疲れ気味の私の元に容赦なく押し寄せる、詩の波。プロフェッショナルとして、ここはそれでも頑張らねばと、詩を読んでいるうちに、なぜかまた楽しくなってきた。詩には心を楽しくするクスリも入っているのかもしれない。いつものようにデビッド・ボウイの『ブラックスター(★)』を聴きながら、作品をどんどん読む、読む、読む。脳が詩に麻痺しないように、ブラックスター(★)がほどよく揉みほぐしてくれて、だんだん調子を取り戻す。前回のように少し多めに選んで、入選5作、佳作5作を選ぶ。ここでは何度も読んで、選び出す。(これでよし)と、決めるまで確信が持てるようにする。選考も楽しいが楽ではない。できるだけまっさらな気持ちで選びたい。

■浜江順子選
【入選】
こやけまめ「地球として」
宇宙としての地球と人間としての自己をあくまでシュールな視点で見詰めている。多分、ここでの地球は温暖化などに晒されている地球でそこに住んでいる現在の人類へのアイロニーもあるのだろう。二行目の「だけど君も目玉として月を見ている」は、宇宙での人間の感性を誇るようで、気持ちがいい。「地球のために生まれて/地球のために死んでいく/地球のために悪夢を見る/地球のために恐怖する/地球のために月と見つめ合う」は、地球の乱発だが、そこに地球をあくまで冷静に見る目があるから、あえて許した。最後に使い物にならなくなった地球に恋人と置いて行かれると終わるところは切なく巧みだ。

佐々木春「リボルバー」
現代の閉塞感と恐怖を自己の感性を全開にして描いている。巻頭の「いつの間にか/迷い込んだ森には」は、いまを生きる者の暗部をうまく表現し、この詩への導入として暗く、怪しく、かつ魅力的である。「わたしはいつもコピー用紙で/空をあおく、あおく、磨く」は、それに対して輝く行為で対抗している。「いよいよ、やつらがやって来る」の「やつら」は何者なのか? は推測するしかないが、なにより魅力的な「やつら」であることに間違いない。少し暴力的な最後の「お日さまめがけて放られた革新素材の心臓を/せえので駆けて、全力ダュシュで追いかけて!」は、物語性に輝き、胸をときめかせる。

熊倉ミハイ「ドレミファドレミファシド忘れ」
初めの「ささやきを取り戻せない」は、導入としてふさわしく、切なさと甘さを混ぜて、さりげなくポンと置く。もちろん、ドレミファは楽しさだけでなく、「ザラザラ」、「クグモリ」などを含んだ、いまを生きる人間たちのため息ともいえるだろう。これらを海という自然のなかで、有孔虫と語る。無駄な力を抜いたかのような表現の連続で、そこには作者の感性と技量が冴える。読む者はそのかろやかな、しかし、暗部を秘めた表現にハマっていくのである。(蓄音機もラジオもスマホもない)、人間本来の楽しさ、そしてため息を軽やかに届けてくれる。

古屋朋「赤い空」
「誰かが引いているのか/沼のなかに次第に落ちていく」は、切ないほどに不条理な怖さを描いている。それはタイトルの「赤い空」にも象徴されるようにも思う。「誰かの理想になりはしない」からの詩の転調も見事で、読む者を鮮やかに誘導する。「形相に浮き出ていた暗雲を/すべて、すべて覚えている」は、「透明な私に花束を持たせた」ことが本当は単に華やかなことではないとこを対比的に示す。「大きな感情を小さな船に乗せて/泣いている子らに渡しに行く」は、未来への提示のようにも見える。最後が少し物足りない気分がしないでもない。

齋藤みみず「嘘」
19歳のつくった短い詩である。それだけにシンプルかつ切ない。人間本来の哀しさを見事に表現しているといっていいだろう。盲目の少女と母の会話は、短い会話のなかに、人が持っている純粋さ、やるせなさを表現している。導入の「そこに月はあるの?」は、奥深い表現で、私達はそこに本当に月はあるのだろうかと考え直してしまう。「お母さんの足はなんほん?」、これもドキッとするセリフで、これに答えられる大人は何人いるだろうか? 最後の「わたし 足が何本か しらない」「しらなくていいのよ」は、暗い闇の中を覗き込むようで少し怖い。

【佳作】
狩原庸輔「A子の追悼」
客観的な表記とA子のセリフが交互に出てきて、この詩を立体的に見せることに成功している。鰯の腹からの人毛という、なんともグロテスクな設定にその夫も出てきて、物語はさらに怪奇にして、そのおもしろさも倍増させる。A子がその人毛を入手する先は自らが働くスーパーの鮮魚コーナーでの魚を捌くところである。さもありなんという身近な設定が鰯の腹から人毛という発想を物語としてカリカチュアライズすることに成功している。A子はそれを夫に食べさせる素麺にそっと忍ばせる。「今ここで、/この男の腹の中で存分に泣くといい」は、意外と身近な話かもしれない。

田口裕理阿「モート」
少し危うい文体は取りようによっては、やや不発ぎみなところもあるが、それがいい味を出しているともいえる。導入の「私達の中は本当に真っ暗闇なのか」と、大きな範囲から入り、「上手く封筒が開けずに、/壊れてしまった伝言も」と各論に入るあたりは無理がない。生きることのもどかしさや不安を、単に自己だけでなく、その意味を広げて問うところは詩の大きさを感じさせる。もう少し言葉を自己の中で確定させると、よりリズムも生まれると思われる。「鰐型のペーパーナイフを使って」など、より個性を発揮すると、詩がさらにいきいきと歌いだすだろう。

篠岡弘「急な階段」
祖父の死をあくまで写実的に描いたこの作は、その描写の細部までの正確さで我々を静謐な世界へと誘う。「祖父は懐中電灯を持って急な階段を降りていた」あるいは「猫舌の祖父は冷や飯をかきこむとすぐに/長い廊下を歩き急な階段を昇り屋根裏部屋に戻った」など、実感あふれる文章はそのリアルな写実で心を打つ。ここでは暗喩を使わない短い短篇小説のような味わいで、死に向かう祖父への愛情と畏敬に満ちている。「水面で回転する蝉の声のしぶきがあがる」など、自然の的確な描写が祖父の死に向かう様子をより鮮やかにしている。最後の「祖父は今から急な階段を昇るのだ」と死への階段を表すそれは巧みだ。

関谷俊博「忌み子」
現代のわが子への虐待を思わせるこの詩は、よく読むと現代という過酷な時代を生きる親子の姿として映る。冒頭の「お水をください…いい子にしますから、わがままを言いませんから、どうぞお水をください」は、衝撃的で、さらにこれは学校と思われるいじめの描写へと移る。「ママ…頭にゴミがふってくるよ…牛乳パックや鉛筆の削りカスや食べ残しのパンがふってくるよ」と訴える子に、「死ね…産まなければ良かった…イラつく」と言う母の苦しみも伝わってくる。最後の「終わりなき影踏みに蝕まれる末那識。忌み子よ。愛しき忌み子よ」と、
母の大きな闇からの子への愛情の裏返しともいえる言葉で終わる。

石川小傘「神話」
日常と非日常が巧く重なり、神を表現している。冒頭の「人通りの少ないさびれた道を選んで/あなたの神様のいる場所へ行く/私の神様もここにいるでしょう」と、人間も持つ不安を問うていく。中段の「最後は全部おとぎ話になればいい/そしていつか神話になれば/それもいい」と、現代人も持つ不安、恐怖を裏側から描写してみせる描き方は鮮やかだ。やや全体に緩慢な感じもあるが、それもこの作品の味にしている。神の怖さもここに加われば、より深みのある作品となるだろう。最後の「『サヤヤー』と吹き飛ばし」は、この作品に軽やかさも加え、不思議な浮遊感も出している。

■雪柳あうこ選評
さまざまなかたちの「引力」を感じる詩が多かったです。つい「読まされてしまう」と感じる詩は、何故そうなのだろうと立ち止まって考えるうちに、わたし自身が詩を書きたくなることも多いです。強い引力を持つ詩は知らず読み手の心を押し、ことばの新たな源になるのでしょう。一方で、「できれば読まないでほしい」とでもいいたげな詩もあります。けれどそれらには、近づいて耳を傾けたくなるような引力があります。言葉の連なりが詩に成る時、そして詩としての引力をたずさえるのはどんな時なのかを一考してみるのも、己の表現を磨く方法なのかもしれません。

【入選】
・安藤慶一「巡礼の道」
・熊倉ミハイ「夜光バス」
・よしおかさくら「三月三日」
・柿沼オヘロ「火山ガラス」
・吉岡幸一「母の蜜柑」

【佳作】
・三明十種 「つめたい せかい」
・入間しゅか「狐憑きの除霊」
・柳瀬多佳「雨・毒薬」
・古屋朋「雪と雷」
・遠野一彦「この夏」

【選外佳作】
・佐々木春「リボルバー」
・三刀月ユキ「37.5度線」
・むきむきあかちゃん「run!」 
・三上太陽「道化師-案山子」
・狩原庸輔 「A子の追悼」

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【入選】
・安藤慶一「巡礼の道」
 おそらくは帰路、渋滞のテールランプが赤々と浮かび上がる頃。それらのゆるやかな流れと、動かないことに何も言えないままの車たちの列を「巡礼者」と見た筆者の気づきが秀逸です。人の生活に密着したものが最も人らしくあることの面白さや、その中で静かに首を垂れているわたしたちの個としてのあり方まで想起させてくれます。従順さと祈りにも似た光景を静かな筆致で描きながらも、そのあり方に疑問を呈するような最終連の表現が絶妙です。

・熊倉ミハイ「夜光バス」
 タイトルから素晴らしいです。目的地はあるはずなのにどこを走っているかわからなくなる夜行バスの中、「きみ」と「ぼく」の間にある距離と孤独が、どこか対話的でもある静かなモノローグにちりばめられた夜の光となって読み手に沁みていきます。「ぼく(たち)は気づかない/気づけない」とくり返されながら深まる夜の中、たった一つ気づけるのが「いのち」(実存)だけであるのも印象的です。最後に「うん/ぼくは気づけない」と〆られるとき、諦めや哀しみを越えて、人として在るという態度まで感じさせてくれました。

・よしおかさくら「三月三日」
 「おついしょう」「おべんちゃら」「おためごかし」「おもねる」の4兄妹に、従姉弟の「おはやし」と「たいこもち」まで! 詩の着想とそこから連想される血縁の様子、そしてそれらが似た語彙であるという工夫が細部まで素晴らしく、詩の世界にすぐに連れていかれてしまいました。実は雛壇より仏壇が好きな主役の「おもねる」は、兄たちに違和を感じつつも、彼らのつながりを心の底ではおもねりなく受け入れているのかもしれません。最後、「おはやしがわらう/3月3日」は、女児の健やかな成長を祝う節句の明るい光を感じます。

・柿沼オヘロ「火山ガラス」
 花粉管がゆっくりと伸びていく映像を思い出しました。小さな石を覗き込んだ時に無限の世界が見えるように、無機物から生まれるはずのない命が生じ、魂を得ていく様を想像しました。今昔を感じさせる多様なモチーフの扱い方も素晴らしいです。後半、火の粉の少女たちが青い血管を透かしている様子は、灼熱の光景に揺らめく幻想的な美を見せてくれます。生命への敬意と見たことのない美しい景色の双方を読み手の脳裏に引き出してくれる、見事な詩です。

・吉岡幸一「母の蜜柑」
 刃の上を渡るような緊張感のある母と息子の時間が、柑橘の香りの濃密さを伴って読み手に迫ります。蜜柑の存在を通じた二人の論理のたゆたいは、生と死をなぞるだけでなく、母子の関係性も示唆しているようです。蜜柑を詰まらせて死んだ父、皮にたかる蟻、腐った蜜柑を捨てる行為、その一つ一つがストーリーとしても比喩としても秀逸です。母と息子の一体感からやがて別離を思わせる最後は、どこか不安になるような独特の詩情と読み手の想像を同時に掻き立ててくれます。

【佳作】
・三明十種 「つめたい せかい」
 雨なのか、俯いて涙を落とすさまなのか、ぽつりぽつりとしずくが土に染み込む様子に向けて、「この/つめたい せかい/この/わたくし でも いいのですか」と祈るように問いかけることばは、読み手に静かで確かな共感を呼び起こします。「つめたい せかい」に触れる際の生の実感と、世界からの生への肯定を戸惑いながら受け取る過程のように読みました。短い詩ですが、読み終えてなお胸に長く残る余韻がありました。「つめたさ」の部分の表現を工夫されると、もっと素晴らしい詩になると思います。

・入間しゅか「狐憑きの除霊」
無二のことばの魅力に満ちている詩です。「びざれ」と繰り返される音に戸惑いながら読み進めていくと、詩はやがて独特のリズムを伴いながら会話へと展開していきます。どこか獣性も感じさせる「びざれ」という鳴き声は、人である証拠でもあり、一方で人に誤解される源でもあることが面白いです。衝動と言い間違いとすれ違いでつながっていく会話は、「狐憑きの除霊」という自己規定を越えて、コントロールしがたい己の生き様そのものを示唆しているようにも感じます。最終連も「びざれ」とリンクするともっと面白いかもしれないと思いました。

・柳瀬多佳「雨・毒薬」
 「はなす」ことには、話す、離す、放す、など沢山の漢字が当てられます。強く対話を希求する「話す」が主眼であったとしても、随所に施された多様な含意を感じながら読みました。「わたし」と「きみ」はどこか似ていて、近しいがゆえに遠のいてしまう様が印象的です。どんな毒薬をもってしても小雨の朝がまたやってくることには、単純な絶望だけではなくうっすらとした光を感じます。哀しみを描きつつも、未来への願いによって培われたことばだと感じました。

・古屋朋「雪と雷」
 冒頭、胸の中にいる美しく小さな瑠璃鶲(るりびたき)のふるえる様が印象的です。やがて、様々な幸を求めて旅をする小鳥が見る旅先の良さと理不尽さが、情感に迫る言葉で描かれていく様は素晴らしいです。寒い季節、最初は怯えていた小鳥も雷空を飛ぶことにさえいつしか慣れて、やがて最後は完全な「青い鳥」となって飛んで行くのも象徴的です。「(二つの)実」が象徴するものと「梨」の比喩は、読み手によっては少し拡散的な印象を与えるかもしれないとも思いました。

・遠野一彦「この夏」
 夏の朝、すべてを見通すような朝の光の向こうに幻や彼岸を見てしまったとしても、わたしたちは「いのちに耐えなくてはなりません」。自他に言い聞かせるような詩行は、朝の中で思い描く「夜」に積み重なるかなしみの具現がみんな立って(耐えて)いる姿に、さらに説得力を増します。最終連の「いのちに耐えなくてはなりません」は少し苦し気でもありますが、どこか凛とした生への決意も感じさせてくれました。途中の「蝉」や「旗」がもう少し詩の中に活きてくるとこの詩がさらに輝くように思います。

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